礼拝とただの日課

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「献身は単に外にあらわれたものだけではありません。 中に深みがあります。 あまり重要性を感じていないときには、それが非常に単調に見え、祈りが機械的に思えても、実際にはそうではありません! たとえ神の名を発すること、唱えることでさえ、単に外に見えるものだけではありません。 その深層部の中で、人が多くの転生の中で身に着けてきた垢を落としています。

パラマハンサ・ヴィシュワナンダ

シュリ・グル・ギータ 第一節 解説

サーダナを機械的だとかむなしいとか言って、多くの人々が苦戦するのを聞いてきました。 彼らはそれに対する抵抗を説明します。 ただ、それをとても長い間続けてきたとか、義務感からそれをしているからというだけで、それを自分たちがしていることと思っています。

最初の甘さを覚えているがゆえに、とにかく実修するという人がたくさんいます。 そのマントラが初めどういう感じだったか、愛と喜びに満たされた様子を覚えています。 その機械的な実修から抜け出すことを求めて、何かが再び変化することを期待し続けています。

ここは一見価値のある粗雑な領域です。 私もそこにいたことがあります。 そこにいたことのないサーダナー実修者にまだ会ったことがありません。 自身の実修の中で、そして他の人が話してくれたことを通して、それらから抜け出すようになるまで、ほとんどのことが繰り返し起こることがわかります。 生と死。 目ざめと眠り。 サーダナについては、礼拝とただの日課というサイクルがあるようです。

礼拝は神聖に感じられます。サーダナが礼拝のように感じられるときには、全身全霊で実修しています。 一つ一つの行動が次の行動を作っていて、聖なるクレッシェンド(<)が日中から夜、夜から日中に導きます。それなしでは何も完了したように感じられません。

ルーティン(ただの日課)というのは機械的で空虚です。 サーダナがルーティンだと感じられるとき、私のベッドが信じられないほど魅力的に見えます。 何週間も手を触れずに棚に置かれていたその本が、突然また興味深く思われます。 マインドが他のそこかしこ、あらゆるところに向かいます。 サーダナのために座るという行動に、自分自身を集中させる必要があります。 しかし、ルーティンの対局に他のものがあることを知っているので、とにかくサーダナをします。 私はそれを見、経験してきました。

毎日礼拝を持続する秘訣をまだ習得していません。 ルーティンが機械的に感じられることを避ける方法つかんでいません。 サイクルから抜け出す方法やそれがどのように見えるのかさえわからない。 このようなルーティンと礼拝のサイクルの中で学んだいくつかの教訓があり、私が礼拝を支持してルーティンから抜け出すのに、それが役立ちました。

そこにいるために必要なことをしてください。

実修が機械的に感じられるとき、それはしばしば不在であることによって引き起こされます。 マインドがどこか他のところにあります。 マインド不在が起こっているときには、実修を楽しむことができません。

礼拝がやって来ない日に、ルーティンが親友になることもあります。

時として、やることが重要に思われないことがあり、それはまだルーティンのように感じられます。 その場合は、考え方を変えましょう。 ルーティンを規律の表現、それ自体がそうなのですが、愛の表現であると考えてください。

サーダナの実修の中に規律を確立することは、「私は現れます、私はここにいるつもりです、私はこれをする理由を忘れるつもりはありません」と言うことです。 それは、たとえそれが困難になったときでも、あなたが努力を注ぐ用意があることを神に示しています。

霊性の道は一直線ではありません。

それは至高神への一直線の道ではありません。 それは面倒で混沌としているかもしれません。 それがサーダナを実践している多くの理由の一つです。サーダナのおかげで、 厄介で混沌としたときでも、足はサーダナの中に、マインドは目標への道に、がっちりと根差していられるように、霊性の道から足を踏み外さずにいられるのです。

最終的には、より礼拝のように感じられる実修になんとか戻ることができるでしょう。 おそらく私たちは全員、このサイクルから完全に抜け出して、祝福されるでしょう。 それまでは、規律をもって、出席してください。 サーダナをし、それに愛を注ぎ、最善を尽くしてください。 残りは神が行ってくださいます。


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